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1976年当時のポルシェ・シュツッェガルト工場の様子。一見、整備工場のようにしか見えないが正真正銘のポルシェの製造工場
写真上はエンジン工場、左が930ターボ、奥が911。専用のラインではなく同じラインで組み立てているのには驚かされる、これぞ今言われているモノ作りの現場
写真下は三人同時にフロント部分の制作に取りかかっている様子。車体の下の台車が見えるだろうか、製造工程全体でこの台車に乗せられたボディが移動していく。この写真を見ていると、ポルシェから人の手の暖かみが伝わってくるのがわかるようだ。
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宮下氏所有の356Bカブリオレ、まさにコンクールコンディション。正直、乗せていただいて交差点で止まると注目の的、何故か照れてしまう自分がいた(笑
それは、この車に乗っているだけの品格が自分にあるのかと考えてしまったから。コンクールコンディションとはそんなことまで考えてしまう力を持っている。
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ヨーロッパ調の風景とさすがによくマッチする。
この写真だけを見ていると現行モデルで通りそうなただずまい。エンジンルームと同じようにSimple is best 一言、欲しい!
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ラリーの為にずらりと並ぶストップウオッチ。
ラリー中SSに入ると数十秒から数分のジムカーナがタッチ&ゴーで10ステージぐらい続く、ナビはストップウオッチとにらめっこでドライバーに時間を告げ、その合間に次のセットアップをおこなう。パレードでニコニコ笑いながら手を振っているのがナビの役目だと思ったら大間違い、ドライバーと二人三脚でなければ入賞は望めない。
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オイルの染みも見あたらないエンジンルーム。
コンクールコンディションという前にミレッミリアのような長距離を走るレースに出場するためには必要最低限な整備なのかもしれない。
そして美しいエンジンルームがいち早く故障の要因を取り除いてくれる。
この、ザ・ポルシェという響きを聞かせられないのが残念!!
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な高校卒業後、本田技研でモトクロスのライダーとして活躍、成績は22歳の時“関東チャンピオン”。24歳の時、ミツワ自動車(株)へメカニックとして入社。その後営業に移籍、練馬営業所を担当。現在はミツワ自動車退職後、4年前に設立した(株)JMMーCARS’ミヤシタガレージでコンクールコンディション級のクラシックカーや、ポルシェの新車など「拘りのクルマ」を中心としたプロデュースを行っている。
「僕自身がここまでになれたのは勿論ミツワ自動車のおかげなのですが、その中でも大きなきっかけは入社2年目の1976年9月に行かせてもらったポルシェの本社工場への研修旅行でしたね。」
翌年から輸入される924の為の研修であったのだが、実際にドイツの車文化を見て驚いた。何から何まで日本の現状とあまりに違うからだったのだが。
まずは最初に見に行ったミュージアム、その博物館の数の多さにまずビックリ、展示車はどれも歴史に残るものばかりだし、そのほとんどが動態保存。
そして勿論アウトバーン。速度無制限で有名だけど実際には時速200キロオーバーの車と時速80キロの車が混在して走っている現実。スピードを出すということだけではなく確実に曲がり止まるということが同時に出来なくては成立しない。
そういう車を作っているポルシェの工場はというと、完全に手作りで車を組み立てていた。二人一組の職人達が台車に乗ったポルシェのボディに部品を組み付けて終われば自分たちで次の行程におしていく。しかし彼らがポッと入社してこの工場で働けるわけではない、職業訓練校で5年以上の勉強をしてこなければこの工場で働くことは出来ない。ここに宮下氏は車社会の文明と文化を実感。そしてこの自動車という文化を日本に伝えねばと決心したと語る。
この思いが営業へ移っても冷めることはなく、ポルシェ1000台販売という原動力になったのだろう。
「ポルシェというメーカーには今だにポルシェ博士の哲学、思想がしかっりと根付いて、もしブレてもその哲学があるから立ち直れるんですね。それがポルシェスタイルだと思っています。」
今年経営が傾きVW傘下に入ったポルシェの未来を質問すると、宮下氏はこう答えてくれた。
「モノの形は時の流れによって変わります、ポルシェの4ドアが良い例ですね。」
1980年頃、928の4ドアバージョンは当時すでに計画があったそうだが、やはりポルシェというメーカーに当時の人々からその要請はなかった。それが21世紀に入り一家族一台の車でという時代背景があったからこそカイエンの成功がありパナメーラという4ドアクーペが出てきた。
「1993年からポルシェの工場は効率化という名の下にオートメーション化が始まりました。これはコストが三分の一になれば売り上げがその分伸びるだろうという考えだったのでしょうが…」
宮下氏はその先は言葉にはしなかったが、その気持ちはポルシェ博士の哲学に売り上げという言葉は無いと言いたかったのだろう。
そこには、機械文明というモノはあってもポルシェの持っていた文化は見えてこない。この先、効率化という生産方式はが残っていくのはしょうがないとしてもポルシェが会社自体そして車もポルシェ博士の哲学へ原点回帰していくはずだというポルシェを愛する一人の男からのエールと僕には聞こえた。
最後に宮下氏がポルシェを言い表すときに使う大好きだという言葉を教えてくれた。
「ポルシェとはイリュージョンなのだ」という80年代ポルシェ社のマーケティング担当役員マリオ・J・ネデルクの言葉だった。
「僕はこれをポルシェに乗ったとき、フロントガラスの内側に映し出されるそのオーナーの人生ではないかと思うのです。たとえば、若い頃にポルシェに乗りたいと思い、その思いが50代で実現できた、その時そこにはその人の人生そのものが映し出されるのではないでしょうか。僕はこのイリュージョン、幻想という言葉からそんなイメージを抱いているのです。そして、より多くの人にこのイリュージョンを見て欲しいと思うのです。」これは全てのポルシェを愛する人への宮下氏からのメッセージだ。
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